8月8日によせて 〜「8888」から16年

8月8日は、ビルマ人にとって悲しい日です。

「8888(シッレイロン)」

1988年3月、ビルマ・ラングーン工科大学の学生とインセイン町の若者とのあいだで喧嘩があり、当局が不公平な扱いをしたために、学生運動が始まりました。この運動はやがて、ビルマ社会のなかで奪われた自由と人権を取り戻そうという動きにまで拡大し、8月8日、全ビルマ学生連盟の声明により、全ビルマで民主化デモ行進が行われました。この1988年8月8日は、「シッレイロン(4つの8)」と呼ばれ、ビルマ人にとって忘れることのできない日となりました。

ビルマの民主化デモンストレーション

警察官によるデモの様子

8月8日、国民たちは家から出て、デモ行進に参加しました。デモは平和的に行われていましたが、ビルマ軍は国民に向けて発砲しました。この日1日だけで、首都ラングーンでの死者は100人以上にのぼり、多くの負傷者がでました。中部ビルマのザガインでは、デモに集まった民衆に警察と軍が発砲し、300人以上が亡くなりました。ラングーンでは、8日から3日間のうちに、1000人を超える人が亡くなりました。
これほどに軍が発砲し脅しをかけても、国民たちは毎日、通りに出て民主化を求めるデモを続けました。国民の要求は、一党独裁の終焉、複数政党制の確立にありました。次第に、国家公務員や軍人や警察も、デモ行進に加わるようになりました。8月30日、ビルマ社会主義計画党(BSPP)から、多くのメンバーが離党しました。
9月18日、軍事クーデターがあり、国家法秩序回復評議会(SLORC)が全権を掌握しました。それでも国民はデモを続けました。SLORCは、短期間のうちに総選挙を行い、政権を移譲すると発表しました。国民たちのデモは10月3日まで続き、数千人が軍の発砲によって命を落としました。

国民総選挙とその行方

国民会議(1993〜1996)

1990年5月27日、総選挙が行われました。ビルマで民主的な選挙が行われるのは、1960年以来、30年ぶりのことでした。この選挙の結果、アウンサンスーチーさん率いる国民民主連盟(NLD)が82%の議席を獲得し、勝利しました。しかし、SLORCはこの選挙結果を無視し、政権を委譲しませんでした。また、当選した議員の多くを投獄しました。

国民会議(2004)

1993年3月9日、SLORCは政権を移譲しないまま、制憲国民会議を開きました。しかし、この会議は軍政主導で行われたため、1995年にNLDの議員たちがボイコットし、1996年に中断しました。このときの会議のメンバーは、90年の選挙結果を反映しておらず、NLDの議員86名、軍政から選出された人物547名から構成されていました。2004年5月17日、SLORCの後身、国家平和発展評議会(SPDC)が国民会議を再開しました。しかし、この会議に90年の選挙で当選したNLD議員は含まれず、軍政が選出したメンバーのみによる会議となりました。この会議は、2ヶ月弱つづき、現在は中断されています。

問題解決へ

NLDのスポークスマンに、海外在住のビルマメディアがインタビューしたところによると、現ビルマの政治問題を解決できるのは国連だと見ているようです。国連は、ビルマ問題の解決をASEANに託しています。ASEANは、加盟国のあいだで内政干渉しないとしており、ビルマの問題は滞ったままです。
ビルマ近隣諸国は、これまで、ビルマ軍政に近い、積極的な国交を結んできています。一方、欧米諸国は、経済制裁をするなど、民主化の足取りが見えないビルマに厳しい態度をとってきました。NLDやビルマ民主化活動家たちは、外国が後者の態度をとり、軍政に強い圧力をかけることを望んでいます。他方、ビルマ軍政当局は、積極的な国交を保つ、近隣諸国の態度を歓迎しています。
ビルマ国民の民主化運動の高まり以来、軍は武力を持って主導権を握ってきました。しかし、この期間、ビルマの国情が改善されるということはなかった、と言ってよいでしょう。今後、ビルマ問題を解決するためには、どのような道を選ぶべきか、明らかなように思われます。国際的関心の下で、NLDと軍政との対話がなされることが、問題解決の第一歩だと、民主化活動家の多くが強調しています。

2004年8月8日

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