ニュース / コラム (2003〜2007年)

2007年  2月27日
2006年  6月3日5月29日5月28日5月13日4月23日(2)4月23日(1)3月13日
2005年  12月11日8月6日7月23日7月1日6月27日6月7日5月3日3月13日3月2日2月10日1月14日1月4日
2004年  12月2日11月28日11月20日11月19日10月31日9月24日9月20日8月25日8月7日8月3日6月18日4月22日4月5日4月1日3月30日3月28日3月26日3月25日3月23日
2003年  12月23日11月19日

2007年 2種類のデモ行進に見るビルマ言論の不自由(2月27日)

1月30日〜2月1日のデモ行進

2月22日のデモ行進

1月30日〜2月1日の3日間、ビルマ・ラングーンでデモ行進が行われました(左写真)。

場所は在ビルマアメリカ大使館前と、在ビルマイギリス大使館前です。普段から大使館前で警備にあたっている警察が、このデモを制止することはなく、30人程度の人々が「アメリカとイギリスはビルマ国内の問題に干渉しないで!」「国連にビルマ問題の決議案を再提出しないで!」などのプラカードを持ち、ビラを配って行進したそうです。同月11日、国連安全保障理事会において、アメリカとイギリスがビルマ問題に関する決議案を提出したことをうけての行動でした。
このデモの様子は、ビルマ国営テレビのニュースで放送され、2月1日のビルマ国営新聞に、次のように掲載されました。「愛国心の強い人たちが、アメリカとイギリスの内政干渉に反発してデモを行いました。これは、法律に定められた平和的なデモでした。愛国心の深い人たちは、このようなデモを応援してください」。
同様のデモは、2月13日東京の米英両国大使館前で、日本人によっても行われました。2月14日のビルマ国営新聞は、この東京のデモを写真入りで大きく掲載し、「ビルマ愛好者グループがデモを行った」と紹介しました。現在、ビルマの隣国タイでも同様のデモが企画されているようで、在タイビルマ大使館から、ビルマと貿易を行っているタイの会社に、在タイ米英両国大使館前でのデモに参加する人を募る連絡が入っているそうです。
そして、2月22日にも、ビルマ・ラングーンの市街地で、50人規模のデモ行進が行われました(右写真)。参加者が手に持っていたプラカードには、「24時間、電気の供給を!」「子どもたちが、みんな学校へ行けるように!」「物価を下げて!」など、日常における基本的な生活環境の改善などを求める17の言葉が書かれていました。18年以上も、軍人が政治をしてきたために、ビルマの経済は不安定で、インフラ整備も今どき悪化している状況です。プラカードからは、そんな国での暮らしの現実が垣間見られます。
このデモ行進は、はじめ10人でスタートしましたが、行進する道端の市民から拍手がわき、飛び入り参加する人たちが出て大きくなっていったそうです。そして、市街地の中心部にあるスーレーパゴダ(寺院)の近くまで達したとき(行進開始後30分程度)、警察隊があらわれたので、人々はちりぢりに逃げていったとのことです。スーレーパゴダは、1988年に大規模な民主化デモと軍隊が衝突した歴史的な場所です。
こちらのデモ行進に関連した人は、これまでに12人、警察に身柄を拘束されました。そのなかで、2月26日現在、解放されたのは3人(日本テレビのスィンスィンアウン記者と、共同通信のミャットゥヤ記者、ビルマの雑誌「ミャンマダナ」のメイダジャンヘイン記者)で、行進に参加した9人は未だに拘束されています。今後、身柄の拘束者は、増えていくものと思われます。
なお、翌23日のビルマ国営新聞には、このデモについて次のような記事が掲載されました。「このデモを行った人たちは、後に逮捕されることで国内外で有名になり、外国からの受賞や賞金を得ることをねらっていました。この人たちは、国民が政府を嫌うための行動をおこし、また、市民の平穏な日常をかく乱したため、逮捕される可能性があります」。
もしもビルマに、言論の自由があり、平和的なデモがほんとうに許される環境があるのならば、ビルマ国民は、みんな、通りへ出てデモ行進を行うことでしょう。
後者のデモに見るように、ビルマ軍政は、市民の素朴な意見に過剰に反応しています。このような一市民の素朴な声を聞くゆとりも、聞き入れる余裕も、今のビルマ軍政にはありません。武器と軍事力で強さと権利を保持していますが、一国の民を守り育てるような強さは、軍事独裁政府にはないのです。そして、前者のデモに見られるように、自らの言葉を復唱するものだけを愛します。ビルマ国民にとっては、悲惨な現実でしかありません。

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2006年 ビルマ軍政の3弁護士?(6月3日)

31日、国連安全保障理事会でビルマの問題を正式に取り上げることについて、日本・ロシア・中国が強い反対の姿勢を示しました。

この日、ガンバリ国連事務次長によって、5月18日〜20日のビルマ訪問に関する報告が行われました。この後、安保理での論議について、日本の大島賢三国連大使が反対し、ロシア・中国がこれに続きました。安保理では、ビルマ問題よりも、国際平和と安全を脅かす問題を扱ってほしいというのが日本の意見で、中国は、ビルマが自国で解決できる問題に国連が介入すれば、さらなる混乱を招くとし、ロシアは、ビルマは世界平和を脅かしてはいない、との意見を述べたということです。
日本が反対の先鋒となったことについて、国民民主連盟(NLD)広報のミィンテイン氏は、インタビューにこたえ、日本はASEAN加盟諸国のことを理解している国のひとつで、民主主義国家だが、我々の国の実情が見えていない、これはとても残念だと述べています。
ビルマの政治問題、経済状況の悪化、麻薬問題、HIV感染の拡大、近隣諸国への難民の大量流入、ノーベル平和賞受賞者をはじめとする人々の監禁・拘束、などなどは、世界の平和・秩序を脅かしてはいないのでしょうか?

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2006年 アウンサンスーチーさんの拘束延長、その後の動きは?(5月29日)

5月26日、ビルマ軍政がアウンサンスーチーさんの拘束を延長しました。

27日、彼女の自宅前の通りが、警察に封鎖されました。この通りに住む市民は、外出時、バリケードを通過するたびに、目的地などを警察に報告しなければならず、迷惑しています。
29日、マレーシアで非同盟諸国会議の閣僚会議に出席した、ビルマ軍政ニャンウィン外相は、アウンサンスーチーさん拘束延長について記者団に尋ねられ、「これは、国際問題ではなく、国内の問題だ」とこたえました。
 29日、国民民主連盟(NLD)は、アウンサンスーチーさんの拘束延長について、法律に違反するため、SPDC(国家平和開発評議会=軍政)に対して訴訟を起こすことにしたと、NLD専属ニャンウィン弁護士が明らかにしました。
日本政府の反応は、29日外務報道官談話に終わっています。

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2006年 拘束の延長、国内の反応は?(5月28日)

ビルマ軍政は、アウンサンスーチーさんを自宅に拘束する期間を、また1年間延長しました。この措置について、軍政当局はこれまで、国内外ともに、公式発表を行っていません。

軍政は、昨年11月27日、拘束をすでに半年間延長していました。そのため、この期限が切れる今月27日には解放されるのではないかと、ビルマ国民や、世界中のビルマに関心のある人たちが、期待して待っていました。この期待の理由としては、今月23日のASEAN警察長官会議で、ビルマ警察長官キンイー准将が、「彼女とNLDとの支持率は下がっており、解放したからといって政治的混乱はない」という趣旨の発言をしたこと(現在アウンサンスーチーさんは、軍政が定めた国家防御法10b条(国の安全を脅かすと判断した人物を司法手続きなく拘束できる法律)によって拘束されていますが、この発言は、その条項が適用できない状況になったことを示します)、また、26日タイ・バンコクでアナン国連事務総長が、ビルマ軍政トップ・タンシュエ上将に対してアウンサンスーチーさんの解放を求める声明を出したこと、さらに、5月18日〜20日にビルマを訪れたガンバリ国連事務次長が、20日ピンマナでタンシュエ上将との会談後、アウンサンスーチーさんとの面会を果たしたことなどがあります。

アウンサンスーチーさん自宅前に集う
若者たち 後方は警察

27日には、アウンサンスーチーさん自宅付近に、徐々に人が集まり、解放を待つような状況になっていました。しかし、この日になっても解放のニュースは聞こえてきません。この日は、1990年国民総選挙の16周年記念日です。国民民主連盟(NLD)本部には、党員やオーストラリア・アメリカ・ドイツ・フランス・イギリス大使館員、国連関係者、1000人以上が集まり、式典が行われていました。午後になって、実は26日中に拘束の延長が本人に通告されていたことがわかりました。そこで、式典後、NLD青年党員200人が、本部事務所からアウンサンスーチーさん自宅前までデモ行進を行いました。徒歩による平和的な行進でしたが、警察機動隊、消防団、USDA(連邦団結発展協会=軍政翼賛団体)によって通行妨害を受けました。また、自宅付近まで来たときには、軍隊から通行を阻止されました。そこで、自宅付近で解放を待っていた200人以上の人々と合流しました。軍が、この集団に対して解散を命じたため、この人たちは声をそろえて「アウンサンスーチーさんお元気で!」と叫び、15時45分に解散しました。その声は、通りいっぱいに響きわたりました。アウンサンスーチーさんにも届いたことでしょう。
1988年の民主化運動の学生リーダー、ミンコーナインさん(一昨年11月に15年8ヶ月の投獄生活から解放された)は、27日インタビューにこたえて、「最悪の国情から脱出する鍵は、アウンサンスーチーさんにある。軍政が、本当に国の成長を考えているなら、アウンサンスーチーさんを解放して平和的対話をすることだ。しかし今、また延長した。これからは軍政に期待しないで、自分たちにできることをしていかないといけない。」と話しました。また、年輩の政治家たちは、若者たちが性急な行動に出ると、再び血が流れることになると、心配しているとのことです。  

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2006年 本格化する選挙結果のもみ消し(5月13日)

1990年5月27日、ビルマ国軍は、民政移管を唱えて、複数政党制の国民総選挙を実施しました。結果、与党となった国民民主連盟(NLD)には政権移譲されず、16年が過ぎようとしています。

軍政の情報大臣
チョーサン准将

今年4月26日、軍政の情報大臣チョーサン准将は、チャインドン(シャン州の都市)での記者会見で、「NLDを非合法化できる」と発言しました。これによると、NLDは、外国に拠点を置くテログループ(少数民族や民主化活動家の武装組織のこと)と連携して国家を混乱させるために活動しているため、非合法組織として告示できるとのことです。
また、准将は、NLDの2月12日特別声明(関連記事:2006年3月13日)に触れて、「現政権は1988年の混乱期に国家の治安を守るために成立した政権で、以来、近隣諸国や国連などから、国際的に認められている」、国会召集の提案も「1990年に国会議員として選出されたNLD党員392名中、死亡・出国・脱会などにより、現存は87名にすぎず、これで国会が召集できるか考えてみるとよい」として、「NLDは屁理屈をこねている」という見解を示しました。さらに、「NLDは(軍政と)対立していて、今では国民の支持も低下している。1993年に(軍政が)開催した国民会議をボイコットして中断させ、2004年に再開した国民会議にも出席しなかった(関連記事:2004年4月1日)。もうNLDとの対話は実現しない」とも述べました。
この記者会見以来、連日、ビルマの報道には、NLD党員たちが自主的に離党しているというニュースが出ています。例えば、5月8日付国営新聞には、「NLDは現在、結党時の主義に反して活動している、外国(米国)の言いなりになっている、組織として機能していない、党本部が在外テログループと繋がっている、国家のために何の政策もとっていない。これらの理由から、シュエクー(カチン州の町)のNLD支部から67名が離党した」という記事が大きく掲載されました。
NLD側は、チョーサン准将の発言について、根拠がなく、意味がないとしています。以前からNLD事務所のほとんどは、軍政の圧力によって閉鎖されており、現在はラングーンの党本部事務所しか開けられなくなっています。これまで、軍政がNLDを合法的組織として認めていたとしても、自由な活動は全く許されてきませんでした。
国会召集に関しては、ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB=亡命政権)の4月30日報告によれば、1990年国民総選挙で選出された全485議員中、死亡した議員は95名で、未だ8割を超える390名が健在しているので、今でも国会召集は可能とのことです。現在、収監されている議員は14名、出国している議員は34名です。
また、離党騒動に関して、NLDからは、党員数人が軍政の圧力からやむを得ず離党したと発表がありました。軍政は、党員を離党させるために、大金を積んだり、「NLDはもうすぐ非合法化されるから、その前に離党したほうがいい。そうしなければ、家族・親類の経済活動は阻止され、公務員なら解雇される」などと脅迫したり、連日、党員宅に警察が現れて脅迫を続け、離党の証書を作成してきて署名を強要したりしているとのことです。5月5日、NLDは軍政に対して、圧制停止を要請しました。
軍政は、国の民主化について、国際会議等の場で指摘をうけるたび、努力していると発言します。しかし、実際は、明らかに、民主化勢力への弾圧を強めています。このまま、NLDが破壊されてしまうと、1990年に国の代表を選んだ国民たちの心は、本当に行き場を失ってしまいます。NLD書記長のアウンサンスーチーさんは、3年前から軍に拘束されたままで、健康状態も明らかにされておらず、来月19日には61歳になります。

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2006年 民主国家のなかの軍事小国(4月23日)

燃えたマレーシアの
ビルマ大使館内

4月21日、マレーシア・クアラルンプールのビルマ大使館で火事がありました。
火事の前日、大使館員チョーチョーさん(40)は、駐マレーシア大使ミェッアウン准将に、帰国を望んでパスポートと3か月分の給料を求めましたが、受け入れられず、2人は口論になりました。翌日、チョーチョーさんは大使館に放火して自殺しました。

21日午後2時、チョーチョーさんは、大使館内でナイフを取り出し、スタッフ全員が館外に避難したところで、入り口を施錠して火を放ち、2階のバルコニーに出て、「この大使館の人たちは、私をいじめる」などと叫び、火の中に飛び込んで死亡しました。マレーシアのビルマ大使館は、2004年に、ロヒンギャー人3人によって、ナイフや斧で破壊され燃やされたことがあります。現在の建物は、その後改築されたものです。マレーシア消防によると、今回、建物外壁はあまり燃えなかったけれども、内部は70%が灰になったとのことです。このニュースは、ビルマ国内では、今のところ、一切報道されていません。
ところで、望んでも帰国できずに自殺したビルマ人は、今年2人目です。1人目は、日本に暮らし、銀座のホテルに勤めていたゾーナンさん(37)です。3月14日にホテル8階から投身自殺しました。彼は日本で13年間就労していました。去年から体調を崩し、これまでのように働けなくなり、ビルマへ帰る準備をしていました。このとき、彼のパスポートは期限切れだったため、東京品川のビルマ大使館に更新を申請しました。しかし、彼はビルマ大使館に“税金”を支払っていなかったため、受付けてもらえませんでした。
世界のビルマ人移民労働者たちは、大使館で公的手続きをとるためには、ビルマ大使館による課税に毎月応えなくてはなりません。日本で働くビルマ人たちは、1ヶ月に最低1万円以上の支払いを求められます。日本在住のビルマ人のなかには、不本意ながらも、パスポートやその他の証明書等のために、やむを得ず支払っている人たちがいます。8年前には、日本で死亡したビルマ人の遺骨を、ビルマの親戚に送ろうと、故人の知り合いが大使館に申し出たことがありましたが、故人が“税金”を納めていなかったために拒否されました。他国における徴税は、主権の侵害となり、できないはずではないでしょうか?また、こうした事態は、人権侵害ではないでしょうか?
所在を民主主義国家に置きながらも、ビルマ大使館のなかは軍政下です。

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2006年 民主主義の手法 vs 軍事政権の手法(4月23日)

NLD(国民民主連盟)が、今年2月12日第59回連邦記念日に、民主主義への平和的移行を考えて出した特別声明文は、軍事政権に対して、4月17日ビルマのお正月までに返答を促していましたが、軍政は何も応答しませんでした。

こうなってしまうのか… Harn Lay (The Irrawaddy)

このことについて、NLDは、今月21日、再度、声明文を出しました。今回は、現在ビルマが抱える問題(※問題内容は下記参照)を具体的に列挙し、それらの解決には海外からの援助が必要だが、ビルマが現在のような軍事国家ではまともな援助がうけられないため、軍政は、NLDとの対話を実現するか、先の特別声明文に示した手順で暫定政権として正式に認められることが必要だ、と訴えました。そして、今回の声明に、5月27日まで返答を待つとしました。この日は、1990年に軍政が自ら実施した総選挙の16年目にあたります。

※インフレ、国民生活の困窮、貧富の格差拡大、中流階層の減少、交通・輸送機関の停滞、国内の燃料不足(外貨獲得のために輸出が優先される)、自然破壊と天然資源の枯渇、麻薬製造・流通の規制不備、AIDS・マラリア・結核・鳥インフルエンザの予防・拡大防止の不備。

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2006年 対話へむけての歩み寄り、待たれる軍政の応答(3月13日)

今年3月13日は、18回目の「ビルマ人権の日」(関連記事:2005年3月13日)です。

しかし、18年間、軍事政権によって、ビルマ国民の人権は虐げられたままで、生活水準も低下する一方です。民主化活動家たちは逮捕・拷問され続け、アウンサンスーチーさんは3度にわたって拘束されてきました。この間、毎年、国連総会において、ビルマ問題に関する審議・決議が行われ、ビルマ軍政への要請など行われてきましたが、軍政はなんら有効な対応をしてきませんでした。また、国連も、状況が改善されなくても、それ以上に軍政を追及することはありませんでした。ビルマでは、昨年からひどいインフレが続き、窃盗・強盗などが増えているにもかかわらず、政府は治安を維持できない状況にあります。このままでは、国民たちが不安・不満を抑えきれなくなって、1988年のようにデモを始めるかもしれないと見られています。そうなれば、88年より多くの血が流れるかもしれないため、世界のビルマ民主化活動家のあいだでは、今年は危険な年だと言われています。
国民のこうした危機的状況を受けてか、先月12日、ビルマの第59回連邦記念日に、国民民主連盟(NLD、1990年の国民総選挙で82%の議席を獲得した与党)が5項目からなる特別声明文を出しました。この中で、NLDは、ビルマが民主主義へと平和的に移行するために、軍事政権に妥協案を示しました。内容としては、1990年5月27日に行われた複数政党の総選挙で、国民に選出され、総選挙実行委員会から正式に発表・登録された国会議員を、召集して、国会を開けば、その国会から現軍政を暫定政権として正式に認める、というものです。そうして、国民が自由意志から選んだ国会から政権が成立するまでの間、対話しつつ、民主的政権の成立を進めようとするものです。また、声明は、対話の仲介人が必要であるなら、国民が信頼できる人物をASEAN諸国から選出したいと要求し、こうした提案に対して、ビルマのお正月(4月17日)までに返答が得られるよう軍政を促してもいます。
NLDのこの声明に対して、今のところ軍政は、黙ったままでいます。一方、世界に散らばるビルマ民主化活動家たちは、この声明を歓迎し、支持する姿勢を見せています。これについて、ASEAN諸国や、国連、日本政府は、どのような動きをとるでしょうか?
さまざまな事情や経緯から、母国を離れて暮さざるをえなくなっているビルマ人たちは、17年前から「ビルマ人権の日」の記念行事を、毎年、海外で行って来ました。でも、彼らは心の中では、こうした大切な日を自国で迎えたいと思っています。ビルマで「人権の日」のイベントが行われ、人権について、ビルマで想い起こす日が一日も早く来るように、私たちはさらなる努力をしなくてはなりません

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2006年 接近する独裁国家(3月5日)

今年も、ワシントンポストの付録誌『PARADE』(1月22日号)に、2005年世界最悪の独裁者が発表され、1位にスーダンのオマル アル=バシール、2位に北朝鮮の金正日、3位にビルマのタンシュエがランキングされました。この2位と3位の独裁国家が、近く、国交回復を企てているとのニュースが入りました。

爆破後のアウンサン廟

ビルマと北朝鮮とは、1983年から国交を断絶してきました。1983年10月9日、ラングーンのアウンサン廟で、韓国のチョン ドゥファン大統領を狙った、北朝鮮の軍人による爆破事件がありました。大統領は無事でしたが、韓国の大臣4人を含む、韓国人17人とビルマ人4人が死亡しました。この事件の実行犯として、1人が射殺され、2人が逮捕されました。逮捕された2人のうち、1人は犯行を認めず、死刑が執行され、もう1人は、北朝鮮のキム ミン チュウ大尉と自白し、無期懲役に科せられました。彼は、現在、インセイン刑務所に服役中です。50歳になり、元気で、ビルマ語を流暢に話しているとのことです。
韓国では今、議員らが彼を韓国に亡命させる運動を始めました。1983年当時の北朝鮮の機密情報を知るためです。ビルマと北朝鮮が国交を回復すれば、彼の命が危ぶまれるため、韓国側は急いでいるようですが、ビルマがどのような対応に出るかは未だ知れません。
ビルマの首相ソーウィン将軍は、2月中旬に訪中し、首相会談を行いました。その後、北朝鮮との国交回復の情報が流れたため、この国交回復には、中国が一役かんでいるとみられています。
拉致問題などで日本人の関心が高まっている独裁国家、北朝鮮と、ビルマとが国交を結ぶことについて、日本政府は、どのような反応を示すでしょうか。

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2005年 軍政主導の民主化へ、前進?(12月11日)

12月6日、ビルマのNGO団体、USDA(連邦団結発展協会)が記者会見を行い、USDA書記長兼農務大臣テイウー少将は、USDAがNGOから政党へと変わる可能性を示唆しました。

USDAは表向きには自らをNGOとしていますが、実態は、1993年軍政自らが組織し、軍政トップのタンシュエ上将率いる軍政翼賛団体です。一般のビルマ人ならば、公務員をはじめ、まともな仕事に就いたり社会的差別を受けないために、強制的にメンバーとならざるをえないため、会員数はビルマ全土で2000万人を越えています。ビルマが国連関係の各種団体の訪問団を迎えたりする際には、USDAを通して各地を案内したり、交流事業をすすめたりしています。このため、軍政当局にとって都合の悪いこと、貧困や人権侵害の実態は隠され、軍にとって都合のよい側面だけが、諸外国に知らされることになります。また、ビルマでは軍の圧力によって、5人以上の集会が禁じられており、国民民主連盟(NLD)などの政党は、政策アピールなどをするための集会を開くことができませんが、usdaにだけは特別に、公に集会を開くことが許されており、各地で定期的に大きな会合が開かれています。その集会では、軍政に賛同する思想を人々に植付けるために、アウンサンスーチーさんや反軍政活動家の批判などが積極的に行われています。
さかのぼってビルマの歴史を振返ると、1962年に軍事クーデターによって全権を握ったビルマの前独裁者ネーウィン将軍は、政治政党、ビルマ社会主義計画党(bspp)をつくり、1988年までの26年間、一党独裁体制を敷きました。ビルマの現独裁者タンシュエ上将も、これと同じ道を歩もうと企てているのでしょうか。
さて、12月5日から再々々度、軍政主導の国民会議が開かれていますが、軍政発表の“民主化ロードマップ”によると、国民会議によって新憲法が制定された後には国民総選挙が行われることになっています。しかし、ビルマでは1991年にすでに選挙が行われ、国民民主連盟(NLD)が圧勝し与党となったのですが、軍が政権を移譲しなかったために、現在まで軍政が続いているのです。国際社会は今、軍政の思惑どおり、91年の選挙と、NLDが与党であるという確固たる事実を忘れてしまい、無視し続けてしまっています。1988年以降、17年間、民主化活動家たちは、平和的な方法でビルマ民主化活動を続けてきました。民主化が遠のきつつある今、活動家たちは、別の手法を選ぶべきなのでしょうか?

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2005年 ASEAN議長国辞退、引き換えに得た利益はなんですか?(8月6日)

先月25〜29日、ラオスの首都ビエンチャンで一連のASEAN(東南アジア諸国連合)外相級会議が行われました。ビルマ軍事政権は、26日外相会議中に、2006年7月から予定されていた議長国就任の辞退を表明しました。

加盟各国は、これに対して理解と感謝を表し、次の議長国はフィリピンが務めることになりました(ASEAN議長国は国名のアルファベット順に持回り)。辞退の理由として、外相は、新憲法制定や総選挙など、自国の民主化プロセスを進めることに専念したいと述べました。しかし、ビルマでは1990年に国民総選挙が実施され、民主主義政党のNLD(国民民主連盟)が議席の82%を獲得しましたが、現軍政が選挙結果を無視し、選出議員を投獄などしたままになっています。その上で新しく選挙をするとして、90年の選挙は、どうするつもりなのでしょうか?
今回の議長国辞退の背景には、欧米諸国が、民主化の進まないビルマが議長国を務めるASEAN会議のボイコットを示唆するなどし、欧米諸国との今後の連携に影がさすとの、加盟諸国の懸念がありました。辞退の歓迎は、一方では、「内政不干渉」を原則としてきたASEANに、外圧に屈したような感を残し、また一方では、議長国持回りの順序上、ビルマに早期民主化を促すこともできずに、軍事政権のやり方を容認するのみとなりました。毎日新聞は、次のような見方を示しています。ビルマ「としては就任に固執してASEAN内に亀裂を生むより、辞退を受け入れてASEANに恩を売る形で収拾した方が外交的に得策だと判断した模様だ」。
ところで、ビルマのASEAN議長国辞退については、日本などで即日ニュースとなりましたが、ビルマ国内では、外相が会議から帰国した後、8月2日に公式発表されました。軍部には、議長国就任を支持するグループと辞退を支持するグループとがあり、今後グループ抗争が起きるのではないかと、国民は不安になっています。昨年10月に前軍情報部のトップ、キンニュン将軍が拘束された頃から、ビルマの国情は極めて不安定で、市街地での爆破事件も数回ありました。現在、今後の混乱に備えようと、国民が食料品などの買いだめに走ったため、物価が高騰するという事態に陥っています。
さて、このASEAN会議会期中に、ビルマ軍政のもとに、外国政府要人がたくさん訪れました。

李肇星外相(中国)と
タンシュエ上将

25日には、タイのスラキアット副首相が訪れ、外相会議開幕直前に、軍政トップのタンシュエ上将と軍政ナンバー3のシュエマン将軍などと会談を行いました。27日からは、中国の李肇星外相が、突如予定を繰り上げ、出席予定の会議を代行に任せてビルマを訪問、タンシュエ上将、首相ソーウィン将軍と会談しました。ビルマ軍政に対する、タイの経済・政治的影響、中国の経済・軍事的影響は以前から言われており、今回この時期の訪問を見ても、今後とも両国のビルマへの影響力は増すばかりと思われます。

ラモス外相(東ティモール)と
ソーウィン将軍(ビルマ国営放送)

また、多くのビルマ人を驚かせたことには、7月21〜25日に、東ティモールのラモス外相がビルマを訪れ、首相ソーウィン将軍・外務大臣・計画経済開発大臣と会談しました。1996年ノーベル平和賞受賞者でもあるラモス外相は、東ティモールの独立運動時代から、ビルマの民主化を積極的に支援する立場を示し、アウンサンスーチーさんの解放を訴え、東ティモールへのビルマ連邦国民連合政府(NCGUB=亡命政権)の事務所誘致を提案するなどしていた人物です。しかし今は、軍政側にたって、諸外国の対ビルマ経済制裁を批判しています。東ティモールは現在、ASEANへの加盟を希望していますが、ビルマ軍政はこれに対して、今のところ消極的な姿勢を示しています。経済的思惑から軍政へ歩み寄ったのでしょうか。なお、東ティモールのシャナナグスマン大統領は、今年5月、ビルマ人からのインタビューに応えて、アウンサンスーチーさんの60歳誕生日によせる、ビルマ民主化運動を支援するメッセージを公表しています。
さらに、ラザリ国連特使が、会期中にビエンチャン入りし、ビルマ軍政外相ニャンウィン氏との会談を求めました。しかし、多忙を理由に将軍から拒否されました。ラザリ特使は、2000年からビルマ問題を担当しており、アウンサンスーチーさんと会談したり、軍政との仲介をするなど、民主化を促進してきましたが、2004年初頭に軍政が入国ビザ発給を停止したため、現在はビルマに入国できなくなっています。ラザリ特使は、昨年、ウィンアウン前ビルマ外相と、次期ASEAN外相会議で会うことを約束していましたが、前外相は昨年9月に解任され(関連記事:2004年9月20日) 、その後、軍に身柄を拘束されています。
閉幕日の29日には、ARF(ASEAN地域フォーラム)閣僚会議の場で、ゼーリック米国務副長官が、ビルマに、アウンサンスーチーさんはじめ政治囚の早期解放と民主化の早期実現を求める発言をしました。直後、ビルマ軍政ニャンウィン外相は、「ずいぶん前から、私の国の国名はMYANMAR(ミャンマー)に変わっています。BURMA(ビルマ)と呼ばないでください」と発言し、民主化プロセスや政治囚解放については、なんら答弁しませんでした。今回のARF議長声明には、ビルマ問題に関して、民主化が進まないことへの懸念の表明、軍政とNLDとの対話実現、ラザリ国連特使への入国ビザ発給再開の呼びかけなどが、盛りこまれました。

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2005年 ビルマ軍政「政治的意見を理由とする逮捕」を認める(7月23日)

7月11日付ビルマ国営紙MYANMAR TIMESに、ビルマ内務省ウィンカウン警察庁次長が、インタヴューにこたえ、ビルマ軍政は「7月6日、政治囚約400人を釈放した」と話したと掲載されました。ビルマ軍政は、これまで、ビルマに政治囚はいないとしてきましたが、今回初めて「政治囚を開放した」との表現を用い、関係者の間に驚きが広がっています。MYANMAR TIMESは、掲載記事について軍から指示・検閲が行われる週刊紙のひとつです。

今回、解放された政治囚については、これまでのところ、リストが公表されていないので、正確な人数は把握されていません。ビルマ国内の国民民主連盟(NLD)発表によると、341人がリストされているとのことです。また、今回の解放にあたって、注目されていた、NLDの中央執行部ウィンティン氏(77歳)については、開放のリストに挙げられ、インセイン刑務所の入口までは、ほかの政治囚たちと行動を共にしましたが、入口のところで呼び戻され、再び収監されたとのことです。
NLDの広報ミェテイン氏は、ビルマ軍政は、一方では釈放し、一方では逮捕していると述べています。
これまでも言われてきたように、軍政は、囚人釈放の発表はしますが、逮捕については公表しません。したがって、通常は、釈放のニュースのみが聞こえてくることになります。しかしながら、実際は、政治的意見を理由とする逮捕は、日々行われており、さらに、軍当局の拷問により政治囚が死亡されられるなどの惨事も、おきています。NLDに関連する最近の逮捕だけでも、次のとおりです。7月6日、モンユワ・モゴックにおける2003年アウンサンスーチーさん遊説のビデオを見たため、ザガイン管区キンウー地区の議長ウィンアウン氏ほか2名を逮捕。7月12日、ラングーン管区タンニェン地区のNLD集会に、5人以上が集まったため、集会場を提供したタンニェン地区副議長チッスウェ氏を逮捕。バゴーのNLDメンバー3名を、BBCビルマ語放送を聞いたため、逮捕。
なお、かつては政治囚逮捕の指揮を執っていた前軍情報部のトップ、キンニュン氏は、昨年10月に軍に逮捕され、今月22日、汚職などの罪で禁固44年の有罪判決を受けました。しかし、今もなお、軍部による、政治的意見を理由とする迫害は続き、ノーベル平和賞受賞で世界的に有名なアウンサンスーチーさん、90年国民選挙で与党となったNLDのティンウー副議長をはじめ、1000人以上の政治囚たちが、未だ拘束されたままです。

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2005年 日本の税金が軍事政権へ、こんなかたちで、こんなタイミングで!(7月1日)

日本政府からビルマ軍事政権に対して、政府開発援助(ODA)として新たに総額11億8,600万円までの無償資金協力が行われることになりました(内訳は、「中央乾燥地植林計画」2億9,300万円、「人材育成奨学計画」4億8,400万円、「日本・ミャンマー人材開発センター建設計画」4億900万円。詳細は、外務省ホームページ内プレスリリース参照)。

ビルマ国営放送より

この件で6月27日、ラングーンにおいて、軍事政権のソータ国家計画経済開発大臣と小田野展丈駐ビルマ大使との間で書簡の交換が行われ、ビルマの国営新聞・テレビに大きく報道されました。このことは、ビルマ軍政にとって、「日本政府は我が国の援助国である」という、よいアピールとなりました。先月19日、軍政から拘束され続けているアウンサンスーチーさんが60歳の誕生日を迎え、各国政府や平和活動に関わるNGO・著名人から声明文が出され、ビルマ軍政は、強い国際的非難を受けているところでした。
日本政府は、2003年6月25日にアウンサンスーチーさんらをビルマ軍政が拘束したことを受けて、ビルマへの新規ODAを凍結しました。以来2年以上、現在も、アウンサンスーチーさんは拘束され続けています。
「人材育成奨学計画」について、外務省の説明によると、過去に長期間、ビルマ政府によって大学閉鎖がおこなわれたことなどから、将来を担う人材育成ができていないため、ビルマ政府から、日本への留学支援を行う無償資金協力の要請があったとのことです。さらに、育成された人材が、将来のビルマの民主的国造りを担うリーダーとなることなどに期待をよせているともしています。 しかしながら、過去に大学閉鎖を行った政権は、現軍政で、そのトップは今も変わらず、タンシュエ上将です。留学生の選考は軍政当局が行うため、何らかのかたちで軍事政権と関連がある人物しか、この教育機会を得ることはできません。1990年の国民総選挙の結果による民主的政治への政権移譲を拒みつつけている現ビルマ軍政に、将来の民主的国家ビルマをつくり、担うことができる人材を、正しく選ぶことができると、日本政府は考えていることになります。
一方でまた、日本政府は、ビルマからの難民受け入れを行っており、民主化活動を行っているため帰国すれば迫害される危険がある人物を難民として認定していますが、こうした難民への教育支援は行っていません。欧米では、政治難民に対する教育支援は一般的なこととして行われています。日本政府は、ビルマという国の将来と今後の日本との国交について、どのような見通しから、人材育成援助を行っているのでしょうか?

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2005年 侵略に備えて?(6月27日)

ビルマ軍指令本部と5省庁(農務省、エネルギー省、情報省など)が、今年10月いっぱいで、首都ラングーンから、マンダレー管区南部の街ピンマナに移される予定です。

このプロジェクトは2001年から秘密裏に進められており、ピンマナにはすでに新庁舎が建てられ、病床数1000床の収容設備がある病院や新空港も完成しています。これらの建築を請負ったのは、HTOO TRADING CO LTD と YUZANA CO LTD の2社です。HTOO TRADING CO LTD は、中国へのチーク材輸出や、中国からの装甲車輸入などを行っており、社長のTAY ZAは、ビルマ軍政トップ、タンシュエ上将の娘婿にあたる人物です。YUZANAの社長HTAY MYINTとあわせて、このふたりは、軍政の経済政策から多大な利益を受けている人物として、国連とEU諸国の制裁指定を受けています。
今回の移転について、関係省庁の公務員たちは、必要性が理解できないとし、短期間での移転のため、業務上の混乱が避けられないとしています。しかし、軍政当局からの移転命令を拒否すれば、解雇されるとのことです。
首都ラングーンは沿岸域に位置しており、侵攻が容易いため、予め機能を内地に移すのだろうとの見方が、ラングーンでは広まっています。

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2005年 爆破事件から1ヶ月(6月7日)

5月7日のラングーン3ヶ所同時爆発事件から今日で1ヶ月です。

このひと月は、毎日のように、どこそこで爆発があったとか、爆弾が仕掛けられたとの情報が、人々のあいだで飛び交い、安全を奪われた人々に、不安な生活が続いています。ビルマ国内は、軍による情報規制が厳しいため、市民は正確な情報を得ることができません。昨日は、2つの高校に爆弾が仕掛けられたとの噂が流れ、子どもたちを迎えに学校へ向った車で、ラングーン市街地は、大渋滞となりました。
街では軍や警察がパトロールを行っていますが、市民にとっては、これも生活を脅かすもののひとつです。軍事政権下では、独裁者たちの思惑どおりの法制度や警察権力がしかれているため、軍や警察が、市街でセキュリティーチェックを行ったり、家宅捜索をすれば、誰が何の容疑でいつ逮捕されるとも知れないのです。現に、元政治囚たちが、セキュリティーの名目で、再び人権侵害を受けはじめています。
事件の当日、軍政当局は異例の迅速さで記者会見を開き、爆破は、タイ国境を拠点とする複数の反政府(民主化活動)団体による犯行と発表しました。名指しされた各団体は、すぐに犯行の関連性を否定する声明を出しました。軍政は、また、CIAを示唆しつつ、これらの民主化活動団体を技術的・金銭的にサポートした団体があるという会見を行いました。これを受けてアメリカは、ビルマへの経済制裁の1年延長を決定しました。さらに、軍当局の発表によると、爆発事件に用いられた爆弾の火薬(RDX)は、隣国では使用されているが、国内で使用されていないとのことでした。しかし、ビルマ国内には、RDXを使用した爆発物を扱う、中国系武器販売会社 CHINA NORTH CHEMICAL INDUSRIES CORPORATION の事務所があり、この会社はビルマ軍や北朝鮮と取引をしているといわれています。

軍は、病院のスタッフに、マスコミに何も言わないよう
命令しました。 HARN LAY (THE IRRAWADDY)

爆発事件の被害者は、軍政発表によれば死者19人負傷者162人ですが、事件直後から、国内の人々によって被害状況が映像とともに報告されており、これまでに調べたところでは、死者は70人を超えています。日本国内のメディアの中には、一部、ビルマ軍政発表どおりの報道で、反政府団体による犯行によってビルマは不安定な状況に陥ったとの解釈をしめすものが見られました。しかし、ビルマ人たちは、この爆発事件について、性能のよい爆弾が、市街地に設置され、市民が被害を受けていることなどから、犯行は、現在自宅拘束中の前首相キンニュン将軍の派閥か、現軍政によるものという見方を強めています。現軍政の犯行という見方では、この爆発事件による国情の不安定を、ASEAN議長国辞退の理由にするのだろうとの声もきかれます。

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2005年 ビルマ軍政、行き当りばったり(5月3日)

今年2月17日にビルマで再々開した国民会議は、3月31日、再び中断されました。

ASEAN加盟諸国では今、2006年ビルマの議長国就任の是非をめぐって意見が分かれています。内政に干渉すべきでないとする、カンボジア、ラオス、などの国々。軍政国家が議長になれば、欧米諸国との今後の連携に影がさすと不安を示す、フィリピンやシンガポール。この件に関しては、ビルマ軍政も対応に策をめぐらせている様子で、軍政トップのタンシュエ上将が外交に国外まで直接出向くという異例の事態も見られました。議長国就任をめぐる問題が大きくなり、国際的に注目されて、議論が深まっていくことを最も危惧しているのは、ビルマ軍政でしょう。問題が大きくなる前に、辞退するのではないかとの声もあります。
アメリカでは、駐米ビルマ大使館員のビルマ人2名とその家族が、難民申請しました。アメリカは、ビルマ軍事政権に反対姿勢を示し続けている国です。かつて、軍政から信頼を受けて、この国の大使館員に任命された軍政高官2名が、今、ビルマに帰国することを拒み、難民申請に至ったのです。ビルマでは昨年10月、当時ビルマ軍政ナンバー3だったキンニュン将軍が、軍に拘束されて自宅軟禁となり、以来はっきりした消息が知れていません。彼の勢力圏内にあった軍関係者たちは、その後、次々に拘束され、軍の裁判によって刑を科せられています。軍高官でさえ明日は知れぬ身という、たいへん不安定な国情です。
いったい何人のビルマ人によって、このような国情が望まれ、生み出されているのでしょうか。

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2005年 今日は何の日?(3月13日)

17年前の3月13日、ビルマで1人の学生が殺されました。この事件をきっかけに、ビルマ民主化運動が始まりました。

3月12日、ラングーンの喫茶店で、大学生と町の若者との間に揉め事が起こり、喧嘩になりました。若者が町の有力者の息子だったために、警察は、この喧嘩に不公平な対処をしました。13日、ラングーン工科大学の学生200人以上が、抗議の行進を行います。平和的行進だったにもかかわらず、警察機動隊が出動し発砲。学生の1人、ポウモウさんが射殺されました。このとき、他の学生たちも負傷し、3日後までに死者は6人になりました。3月16日、警察の横暴な対処に反感を抱いたラングーンの学生たちが、デモ行進を計画しました。ラングーン大学に集まった学生たちは、工科大学へ向かいましたが、途中、インヤー湖のほとりで、軍と警察機動隊の妨害に遭いました。軍と警察による暴力と発砲に、100人を超える学生が命を落としました。インヤー湖にある通称「白い橋」は、学生たちの血に染まり、この日以来「赤い橋」と呼ばれることになりました。また、軍はこの日、拘束した学生を護送車に無理やり押し込み、刑務所に到着するまでに41人を窒息死させました。
ポウモウさんの死から1年後、3月13日は、民主化を求める人たちによって「ビルマ人権の日」と定められました。それから17年経った今も、依然、ビルマの人々の人権は、軍によって侵害され続けています。

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2005年 ネーウィン氏はまだ死んでいない(3月2日)

1962年3月2日に、ネーウィン将軍が軍事クーデターを起こして、ビルマ国民が自由を失ってから、今日で43年になりました。

その日、ビルマは民主政府から軍事政権に替わりました。その後ネーウィン将軍は、民間資本のすべてを国有財産とし、1947年以来の憲法を無効としました。1974年にはビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立し、軍隊を引退したネーウィン氏が議長を務めました。ビルマは、1987年、世界最貧国のひとつになりました。
88年の民主化デモの際、ネーウィン氏は「軍が(デモ行進に向けて)発砲するとき、空中へ威嚇射撃はしない。当たるように撃つ」と国民に公言しました。この年7月、BSPPを引退したネーウィン氏の後継者となったセインルウィン氏は、民主化活動家の殺害を指揮し、大勢の学生や民間人が惨殺されました。それでも、ビルマの民衆が民主化運動を続けたため、ネーウィン氏の部下、ソーマウン将軍、タンシュエ将軍、マウンエイ将軍、キンニュン将軍らは、9月18日に国家法秩序回復評議会(SLORC)を設立し、再度、軍事クーデターを起こしました。SLORCは「90年に国民総選挙を実施し、選挙後、軍は兵舎に戻る」と公約しましたが、選挙の結果与党に選ばれた、アウンサンスーチーさん率いる国民民主連盟(NLD)に政権を移譲せず、軍は未だに政治介入を続けています。
ネーウィン氏は、2002年に死亡しました。ネーウィン氏は“順序良く”ビルマという国を崩壊させ、悪い遺産を残しました。なかでも、彼が遺した政策と原則は、現在も軍部に“正しく”引き継がれ、ネーウィン氏が今も生き続けているかのようです。

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2005年 ビルマに吉凶、タイの新政権(2月10日)

ビルマ軍政の首相ソーウィン将軍が、タイのタクシン首相に祝辞を贈りました。タクシン首相ひきいるタイ愛国党は、2月6日実施された総選挙で圧勝し、タイ憲政史上初の単独政権樹立が騒がれています。

タクシン首相は、前任期の4年間にビルマ軍部と親しくし、タイ-ビルマ間の経済関係は強くなりました。彼の家族が経営する会社 Shin Corporations は、携帯電話・衛星放送の分野でビルマ国内に進出しています。昨年12月、ビルマ軍政トップ、タンシュエ上将との会談後には、記者会見で「アウンサンスーチーさん拘束を続けるのは正しい指針」との見解を示しました。また、2月17日に再開されるビルマ国民会議を支持し、これによってビルマの民主化が発展すると話しました。
このように、タクシン首相はビルマ軍政と密接な関係にあるため、タイに逃れているビルマ人民主化活動家たちの今後の苦労が懸念され、さらには、タイ-ビルマ国境の少数民族難民キャンプや移民労働者に対する、過酷な法が加えられるのではないかとも、心配されています。
タイ愛国党の圧勝は、「ビルマ軍政に吉、ビルマの民主化を望む人々に凶」という言葉が、はやくもビルマ民主化活動家たちの間で言われています。

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2005年 軍政による国民会議、再「再開」(1月14日 関連記事:2004年4月1日〜22日

1月11日、国民会議実行委員会議長テインセイン中佐は、2月17日に国民会議を再招集すると発表しました。

この「国民会議」は、軍政から選出された1088人からなるもので、昨年5月17日から7月9日まで、およそ2ヶ月間開かれていました。その間に決議した案件はありませんが、当局は、農期に入ったことを理由に会議を中断していました。この会議には、1990年の国民総選挙で議席を多数とった、国民民主連盟(NLD)やSNLD、その他の少数民族が構成する政党の議員は、参加していません。
書記長アウンサンスーチーさんを軍によって自宅拘束され続けているNLDは、12日「2月17日からの会議にも不参加」の態度表明をしました。

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2005年 何のための解放?独立?(1月4日)

1月4日のビルマ独立記念日のために、軍事政権は、いわば恩赦として、1月2日より5588人の囚人を解放しました。

昨年、軍政は、11月18日から3937人、同25日から5311人、12月11日から5070人、計14318人を「国家情報局が誤って拘束した人々」として解放しました。これら19906人の解放者のうちに、政治囚は84名含まれていました。解放者全体の、実に1%にも満たない人数です。一方でまた軍政は、11月18日からこれまで2ヶ月弱のあいだに、民主化運動に関わった人など26名を、新たに拘束しました。現在、ビルマの刑務所の中には、1350名を超える人々が政治囚として拘束され続けています。
2005年1月4日は、第57回ビルマ独立記念日です。ビルマ国民は、57年前の今日、イギリス植民地下から解放されましたが、今もまだ、自由を享受できずに、軍事独裁政権の下で苦しめられています。この状況は、「第2のビルマ独立闘争」とさえ呼ばれています。

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2004年 人権無視のアジアへ?(12月2日)

軍によって自宅に拘束されているアウンサンスーチーさん宅に、11月27日警察が訪れて、今後1年は拘束を継続するというような内容の文書を読み上げました。

このことは、報道規制の厳しいビルマで、軍や民主化の動きに注意している民間ジャーナリストが、アウンサンスーチーさん宅周辺で、文書の読みあげを聞いたため、明らかになりました。国民民主連盟(NLD=アウンサンスーチーさんが書記長を務める政党)のウールウィン広報官がこの事実を確認していますが、通告内容については、当局からNLDへの通達はなく、国営放送を通じた軍政からの公式発表もないため、明確には分かりません。
ビルマの民主化リーダーでノーベル平和賞受賞者でもあるアウンサンスーチーさんは、昨年5月30日ディペーイン虐殺事件の際に、軍に連行されて以来、何の法的根拠も示されず、裁判も行われないまま、現在まで拘束され続けてきました。今回の措置にも、何の正当性もみられません。10月末の政変直後、軍政SPDCのシュエマン将軍が前首相キンニュン将軍の汚職を批判して、「人は法律の上にいない。人は皆、法律のもとにいる」という内容の発言をしました。しかし今、軍は、確実に、法の上に存在しています。
11月29、30日とラオスで開催されたASEAN首脳会議において、タイのタクシン首相は、ビルマの首相ソーウィン将軍と会談し、今回の措置について問いただしました。新首相ソーウィン将軍の返答は、27日朝に国を離れたので情報を確認できていない、というものでした。日本の小泉首相は、29日夜にビルマと会談しましたが、この時点で27日のビルマの動きを知りませんでした。そのうえで、国際社会がビルマの動向に注目している、とか、日本政府の意向は最高実力者のタンシュエ上将に伝えたい、と発言しました。翌30日、昼食会の席で2人は再度接触しましたが、小泉首相から、事態を追及する姿勢はみられませんでした。会議後の議長声明には、ビルマの民主化問題について、一言も触れられませんでした。ASEANには内政不干渉の原則があるとはいえ、異様な事態といえるでしょう。
ASEAN首脳会議と時期を同じくして、ビルマ国内で「第3回ASEAN女性問題小委員会」が開催され、ASEAN加盟各国の女性代表者たちが集まりました。ビルマからは、ビルマ女性委員会(MWAF)の名誉会長で、軍政ナンバー3のシュエマン将軍の妻キンレーテッと、新首相ソーウィン将軍の妻タンタンノエ会長が参加しました。ビルマ軍による少数民族女性への組織的レイプは、国連総会で取り上げられるほどの問題になっていますが、今回の会議で、ビルマは議長国として、何を話したのでしょうか。会場となったSedonaホテルは、アウンサンスーチーさんの自宅から徒歩10分ほどのところにあります。

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2004年 ニュースの見出し「軍政が囚人約1万人を解放」を、どう読みますか?(11月28日)

ビルマ軍政は、25日「新たに囚人5311人を釈放する」と発表し、18日からの解放者3937人とあわせて、28日夜までに、計9248人を解放したと公表しました。

解放者には、2005年に刑期満了となる人や、妊婦、60歳以上の高齢受刑者などが含まれていたことが確認されています。しかし、解放された政治囚は、約30人にとどまっています。政治囚たちの家族は、この10日間、連日、刑務所の前につめかけて、解放を今か今かと待っていましたが、ほとんどは徒労に終わりました。ビルマの刑務所には、いまだ、約1400人の政治囚が拘束され続けています。
今回、解放の対象となった多くは、軍人や警察官、財界人です。これらは、先月キンニュン将軍の更迭にともなって廃止された国家情報局が、かつて拘束した人々です。一方、キンニュン将軍と親密な関係にある人々は、将軍の更迭後、拘束されました。
「ビルマ軍政、囚人を解放」のニュースに、欧米や国連は、すべての政治囚とアウンサンスーチーさんを解放するべきとの声明を出しました。日本からの態度表明はありません。明日から、ASEAN首脳会議が開催されます。加盟国からどのような声明が発表されるでしょうか。

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2004年 学生リーダー、15年8ヶ月ぶりの帰宅(11月20日)

1988年の民主化運動リーダーとして活動の指揮をとり、のちに政治囚となったミンコーナインさん(全ビルマ学生連盟の議長)が解放され、19日夜8時、自宅に戻りました。

家族の話によると「微熱があるが、体調はおおむねよい。(1989年3月23日に軍情報局に拘束されて以来)窓のない狭い独房にいたため、視力が衰えている。近日中に健康診断を受ける」とのことです。19日解放された囚人約600人のうちに、政治囚は、21人含まれていました。1400人以上いる政治囚全体からみれば、少数に過ぎませんが、解放された方とご家族の喜びは、言葉に表せないほどのものでしょう。こうした事態に、国連事務総長は歓迎の意を発表し、国際的人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルも、即座に反応を示しました。
キンニュン将軍を拘束した翌日から、ビルマから喜ばしいニュースが次々と聞こえるようになりました。ビルマ国営新聞からは、民主化運動家を揶揄する記事が消えました。軍で内部査察が行われ、権力をむさぼってきた軍人たちが逮捕されました。軍みずから過去の過ちを認め、民主化活動の学生リーダーも解放しました。しかしながら、軍が政権をにぎって来たこの16年間、ビルマ国民たちは、平穏な生活への希望を裏切られ続けてきました。国民総選挙の結果は無視され続け、解放された政治囚は再逮捕され、国際社会の反応と金銭の動きばかりを気にする軍政に、抑圧され続けてきました。最近の動きを、喜ぶことに変わりはありませんが、これまでの軍政のやり方を知る限り、慎重な姿勢はくずせません。
ただし、こうしたひとつひとつの措置に国民が喜び、嫌悪の対象となっていた軍に歓迎の気持ちさえ抱き始めている、今は、軍にとって方針転換のチャンスといえます。すべての政治囚とアウンサンスーチーさんを解放し、1990年の国民総選挙で与党に選ばれた国民民主連盟(NLD)との対話をはじめれば、軍はこれまでの不名誉を挽回して、国は、軍事国家から民主国家へと移行していくでしょう。この好機を、現軍政は、活かすことができるでしょうか。
今、政治囚たちの家族は、眠れない日々を過ごしています。解放者のリストも解放日時も発表されていないため、自分の家族がいつ解放されるかと、仕事を休んだり、刑務所の前につめかけたりして、待っているのです。

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2004年 ビルマの囚人は、人権ある人間か、軍の道具か?(11月19日)

ビルマ軍政が、18日夜の国営放送で「囚人3937人を釈放する」と発表しました。解放は、18日から全国39ヶ所の刑務所より、順次行われるとのことです。

先月18日、前首相キンニュン将軍の更迭から、ちょうど1ヶ月経ちました。今回の措置は、現政権に好印象を加えることが目的かとみられています。解放者のリストはまだ明らかにされていませんが、当局の説明によれば、解放の対象は「かつて国家情報局に誤って拘束された者」です。それならば、現在ビルマ国内に約1400人いる政治囚たちを全員解放するのか、これまでのように、「解放」のニュースを報じた後、国際的関心が薄れてから、再び同人を拘束することはないのか、また、アウンサンスーチーさんの拘束は解かれるのか。この措置が「アピール」に過ぎないか否かを見極めるためには、やはり、今後の行方を注意深く見守る必要がありそうです。

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2004年 どうするMI職員(10月31日)

9月18日、ビルマ軍事クーデターから16周年の日に、外務大臣等の入替人事がありました。それからちょうど1ヶ月が過ぎた10月18日、首相キンニュン将軍が、任期14ヶ月にして、健康上の理由で首相を引退すると発表されました。いずれの人事も、国民の意思や政治家によるものではなく、軍政、なかでも実権を握るメンバーからなる国家平和発展評議会(SPDC)の意向によってなされたものです。

新首相には、SPDC第一書記ソーウィン将軍が就任し、新SPDC第一書記には、現在、国民会議実行委員会の議長を務めているテインセイン将軍が就任しました。ソーウィン将軍は、USDA(連邦団結発展協会=軍政が自ら組織する、軍政翼賛会のようなもの)の総裁で、昨年5月にアウンサンスーチーさんらを襲撃したディペーイン虐殺事件の責任者として知られています。また、かねてから「軍はアウンサンスーチーさんとは対話しない」「NLD(国民民主連盟=90年の国民総選挙で与党に選ばれた政党)には政権を移譲しない」と主張してきた人物です。この新首相が、就任から1週間後、SPDCのシュエマン将軍とともに、軍と経済界の要人を集めて、「キンニュン前首相は、SPDCの方針に従わず、また収賄行為のため、逮捕された」と発表しました。キンニュン将軍の排斥によって、軍では、クーデター以降16年間地位を保持し続けているのは、タンシュエ上将とマウンエイ将軍の2人のみになりました。首相と軍情報局(MI)長を兼任していたキンニュン氏が逮捕された後、軍情報局の権力者たちが次々と逮捕されています。キンニュン氏寄りの軍情報局員や贈収賄を行っていた人たちは、現在、国内のほかの街や国境へと逃亡を始めました。
さまざまなメディアで、キンニュン氏は「穏健派」と呼ばれていますが、彼が率いる軍情報局こそが、反政府活動家や民主化運動化、政治家などを拘束し、拷問してきました。国民は、彼や軍情報局を嫌っています。ところが、国境地帯で活動を続けてきた民主化活動家グループは、逃亡してくる軍情報局員を歓迎しています。以前は自分たちに拷問などしていたけれども、今は軍政から逃げる同じ立場にあり、ともに国が変わるために努めたいとしているのです。1988年民主化活動の学生リーダー、モーティーズン(現在アメリカに亡命)さんが運営するDFB(ビルマ民主連合)は、世界中のビルマ大使館の職員に、ビルマ民主化のために活動しようと呼びかけました。なぜなら、世界のビルマ大使館には、キンニュン氏寄りの人が多く、今ビルマに呼び戻されることを恐れているからです。このため、もしも、このような人たちが帰国を望まない場合には、その国で難民になれるようにサポートすると、そして、ビルマが民主的な国になるように、ともに活動しようと呼びかけたのです。
不正な方法によって権力を握ってきた人々は、復讐を恐れて、いつまでも権力を手放そうとしない、と言われます。今回のビルマ民主化活動家たちの反応は、彼らが求めているのは真に平和な民主国家であって、そのために、憎しみも抑制し乗り越える準備ができていることを示しているのではないでしょうか。

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2004年 ロンジーをかぶった軍人(9月24日)

ビルマ国営新聞に、首相キンニュン将軍の記事が掲載されない日は、ほとんどありません。しかし、今月17日シンガポールからのウィンアウン前外相との帰国後、約1週間、彼の記事がありませんでした。23日、タイ保健大臣との会見記事で久々に姿を見せます。このとき、隣には、新外務大臣の姿がありました。

ビルマ人たちが驚いたのは、新外務大臣ニャンウィン将軍が、ロンジーという伝統的なビルマ服で出席していたことです。ビルマでは、軍に所属する人は、たとえ公務員でも、1年間は軍服を着用しつづけるのが通例です。キンニュン首相は、今でも軍服です。さらに驚いたことに、軍の肩書きも、やはり1年間は維持されるはずですが、記事中にありません。9月18日の就任ニュースでは「Minister for Foreign Affairs Maj-Gen Nyan Win(外務大臣 ニャンウィン将軍)」と記載されていましたが、23日の新聞には「Minister for Foreign Affairs U Nyan Win(外務大臣 ニャンウィン氏)」となっています。ビルマで「U(ウー)」は、一般の年配男性に用いる敬称です。外務副大臣も「Col Maung Myint(マウンミン大佐、18日記事)」から「U Maung Myint(マウンミン氏、23日記事)」へと変わっています。
数年前、ビルマで流行ったジョークがあります。―――早朝の新聞社に、政府から短い電話が入り、ひとつの方針変更が伝えられて、原稿が訂正されると、新聞のページ数は半分になっていた。なぜだかわかる?軍人の肩書表示をやめて、全部「U」にしたのさ、「ドゥーティヤボージョームージー(国軍副司令官)」だけでも、何分の1になったかな!?―――。ビルマには国営新聞しかなく、紙面のほとんどは、軍の関連記事で埋まっています。
ジョークはさておき、今回の変更は、10月開催のASEMを意識してのことでしょうか?

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2004年 ビルマ軍靴の音はASEM(アジア欧州会議)に聞こえているか(9月20日)

1988年9月18日、ビルマに軍事クーデターが起こり、軍が国の全権を握りました。以来、この時期には毎年、何らかの内閣改造が行われてきました。2004年は、外務大臣、農業・森林大臣、運輸大臣に交代がありました。特筆すべきは、新任のニャンウィン外務大臣が、将軍から入閣した点です。これまで、外相には、大使などの役職経験者が就任してきましたので、今回のこのようなことは、ここ16年間で初めてです。

10月に開催予定のASEM首脳会議に、ビルマは、首相ではなく外相級が出席するという条件付きで、参加が認められています。今月ASEAN諸国は、ウィンアウン前外相の出席で合意しました。この時点での、こうした外相交代です。ビルマ軍政の世界に対するチャレンジとも見えます。今ビルマでは、民主化の匂いが消えて、軍靴の音だけが高らかに響き始めたようです。将軍から外相に就任したニャンウィン新大臣と、ASEANのリーダーたちは握手をするのでしょうか?また、EUはどのような反応に出るでしょうか?
軍政からは、ウィンアウン前外相は定年退職と発表されましたが、実際は解雇されたという見方が強まっています。今後ウィンアウン氏が海外に出ることはあるでしょうか?彼の前任オンジョー元外相は、現在ビルマから亡命しています。

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2004年 首相就任1周年!(8月25日)

キンニュン将軍がビルマ首相に就任して以来、今日で1年が経ちました。

しかし、国は未だ民主化されず、今後の見通しもたっていません。「首相に時間を下さい。100日以内に国が変わります。」、首相就任の際に、軍政寄りの人々は言いました。実際は、1年たった今も、何も変わっていません。就任時のこの言葉は、笑い話になりました。
昨年5月31日のディペイン虐殺事件の後、キンニュン将軍は首相になりました。この1年の間に首相は、近隣のASEAN諸国を訪れ、国を民主化するという内容の不明瞭なロードマップを発表し、アウンサンスーチーさんを1年以上、自宅に拘束し続けました。一部の武装グループとの対話、国民会議の再開は試みられたものの、結果は何も現れてきていません。民主化活動グループや少数民族グループとの平和的対話は、実現されていません。将軍の首相就任は、「政治のなかに軍人が位置を占めておくこと」「国内外に、ビルマ政府には軍が関わることを示すこと」を目的としている、と見られ始めているようです。

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2004年 インドの若者が「知る」ビルマ、日本の若者が知る「ミャンマー」(8月7日)

インドの首都ニューデリーで、公立中学校1年生の教科書に、アウンサンスーチーさんについて記述されることになりました。そこには、次のようなことが記載されています。

「アウンサンスーチーさんは、非暴力主義で1991年にノーベル平和賞を受賞した。インドの隣国ビルマは、軍事政権下にあって、インドのように自由な国ではない。ビルマがイギリス植民地から独立を得たのは、インド独立のわずか数ヶ月後のことだが、1962年の軍事クーデター以来、教育・政治・経済などさまざまな点で、インドに大きく遅れをとることになった。1988年、ビルマで学生を中心とした民主化運動が始まり、以来、軍が民主化活動家を殺害するようになったため、たくさんの学生や政治家がインドや周辺国へ避難し、政治難民となっている。1990年の国民総選挙で勝利したのは、アウンサンスーチーさん率いる国民民主連盟(NLD)だが、軍はそれを認めず、アウンサンスーチーさんや政治家たちは、今も拘束・投獄されたままでいる。」
インドでは、教科書の内容は、州の教育委員会が決めることになっています。インドでは、教科書にアウンサンスーチーさんの記載がなされましたが、一方、ビルマでは、ビルマ独立の父、アウンサン将軍(アウンサンスーチーさんの父親)の名前が、軍事政権によって、教科書から少しずつ削除されていっています。ビルマでは、軍が教育方針を決めるようになってから、自由な教育が行われなくなりました。
日本では、今、子どもたちが「ビルマ」という国名を知りません。教科書にも地図にも「ミャンマー(軍事政権が1989年に独断で変更した自国の英称)」とだけ記載され、日本のマスコミも、ほとんどは、この呼称を受け入れて使用しています。自由な教育がなされているはずの日本で、とても残念なことです。

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2004年 ビルマで、はじめての署名キャンペーン(8月3日)

国民民主連盟(NLD、1990年の国民総選挙で82%の議席を獲得した政党)が、現在ビルマ全土で署名活動を展開しています。

 内容は、1.NLDのすべての事務所を再開すること、2.NLD書記長アウンサンスーチーさんとNLD副議長ティンウーさんを解放すること、3.すべての政治囚を解放すること、の3点。
多くの学生や僧侶、国民たちが、NLD会員のところで署名しています。ビルマの芸能人たちも署名しました。この署名活動に参加したことで逮捕されたというニュースは、まだ入ってきていません。もしも署名者を逮捕するなら、刑務所の収容人数が足りません。ビルマ国境に鉄格子を作るしかなくなるでしょう?! キャンペーンの結果、国民の気持ちに軍事政権はどのような反応を示すでしょうか。

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2004年 アウンサンスーチーさん59歳のお誕生日おめでとうございます(6月18日)

6月19日は、アウンサンスーチーさんの誕生日です。

彼女がビルマ民主化のために政治の世界に入ってから、16年が経ちました。この間に3度、軍事政権によって自宅などに拘束されました。拘束状態で誕生日を迎えるのは、今回で8回目になります。
ビルマ国内外で人々は、彼女が健やかで1日も早く解放されるようにと祈っています。

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2004年 求人情報:【職種】大統領 【応募資格】軍隊で20年以上の経験を有すること(4月22日)

4月17日、ビルマの元日に、軍政によって1年近く封鎖され続けていた国民民主連盟(NLD)の本部事務所に、再開許可が出ました。

世界に、「近日中にアウンサンスーチーさん解放か」のニュースが流れました。また、この日NLDは、「5月17日に開催される国民会議の内容が、1996年に中断した時と同様なら、会議には参加しない」という声明を出しました。
19日、国民会議実行委員会の議長テインセイン中佐は、「今回の国民会議は、1996年に中断された時点からの再開とする」と発表しました。アウンサンスーチーさんは、22日2時現在、未だ解放されていません。
 9つの少数民族の政治的集団からなる民族連盟(UNA)は、「NLDが国民会議に不参加なら、我々も参加しない」との声明を出しています。国連のアナン事務総長は、4月1日の時点で、NLDとアウンサンスーチー女史の出席がない場合には国民会議を承認しないと話しています。
1996年に中断された国民会議に関して、構成員の不公正さについては、4月1日付ニュースのとおりです。また、この会議で審議・決議がすすめられていた新憲法には、次のような内容が含まれています。「大統領は、20年以上の軍事経験者でなければならない」「法務大臣・防衛大臣・国境警備大臣は、いずれも軍人からなり、任命は軍部が行う」「国家の緊急時には、軍部が独自に国家声明を出すことができる」「外交には軍部があたる」。

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2004年 「なにが再開されるのだろう?」(4月5日)

国連のアナン事務総長は、4月1日、ビルマ軍事政権に対して、次のことを要請しました。

「ビルマで再開される国民会議のために、ビルマ民主化活動のリーダー、アウンサンスーチー女史と、国民民主連盟(NLD)の幹部を早急に解放すること」「国民会議に、すべての政党とあらゆる少数民族の代表を参加させること」「会議で言論の自由を保障し、民主化活動を平和的に行うこと」。また、国民会議開催日の発表の後、日本・イギリス・アメリカの3カ国が、当局に、アウンサンスーチー女史とNLD幹部の早急な解放を要請しました。さらに、アムネスティ・インターナショナルからは、投獄されている国会議員と政治囚の解放が、当局に要請されています。
国民会議「再開」まで1ヶ月余。これまで政治活動を妨害されてきた、NLDをはじめとするビルマの人々にとって、国民会議に向けた準備の時間は、あまり残されていません。しかし、アウンサンスーチーさんとNLD幹部の解放に関する当局の方針は、未だ不明瞭で、NLD事務所の閉鎖も、すでに10ヶ月を越えています。これだけを見ても、ビルマ国内の政治活動は、正常に行われているとは言えません。
1993年からの国民会議は、民主化に至ることなく消滅しました。「今回『再開』される国民会議は、真の民主化に向かうのだろうか?」 これまで長い間、抑圧・迫害され、期待を裏切られ続けてきた多くの民主化活動家たちは、現状を見る限り、「信用できない」と言います。

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2004年 国民会議「開催日」発表(4月1日)

ディペーイン事件から丁度10ヶ月にあたる3月30日、「国民会議をラングーンで5月17日に再開する」「会議に参加する代表者をこれから招集する」と、軍政のメディアを通じて、国民会議実行委員会の議長テインセイン中佐の署名で、発表がありました。誰が「代表者」として召集されるのか、国民民主連盟(NLD)が82%の議席を獲得した'90年の国民総選挙の結果は正しく反映されるのか、などについては不明です。

「再開」といわれるとおり、国民会議は1993年3月9日に始められました。しかし、軍政主導で行われたため、1995年にNLDの議員たちがボイコットし、1996年に中断しました。このときの国民会議は、'90年の選挙結果を反映せず、NLDから86名と、軍政から選出された547名によって、構成されていました。
今回再開される国民会議は、2003年8月30日にキンニュン首相が発表した、7段階からなるロードマップの第1段階です。ロードマップには、新憲法を制定し、総選挙を行い、国会を開催して政府を選出するという重要な4項目が含まれています。しかしながら、このロードマップと国民会議の再開に賛同しているのは、軍政と、軍政と停戦協定を結んだ少数民族武装グループだけです。
9つの少数民族の政治的集団からなる民族連盟(UNA)は、1993年の国民会議再生に過ぎないと、ロードマップに反対しています。また、NLDは、執行部のメンバーたちが拘束から解放されたときに会議を開き、ロードマップについて態度表明するとしています。海外の民主化活動家たちの多数は、ロードマップにも国民会議再開にも反対しています。
1990年に公正に行われた国民総選挙の結果が、当時、軍政が政権移譲しなかったこと以外に理由もなく、無効にされてしまうのでは、真の民主化に向かっているとは言えません。これから軍政はどこへ向かおうとしているのか、今後の動きが注目されます。

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2004年 放置された国家的虐殺事件(3月30日)

10ヶ月前の2003年5月30日、USDA(連邦団結発展協会=軍政が自ら組織する、軍政支援団体のようなもの)が、遊説中の国民民主連盟(NLD)一行を襲撃し、70人以上を殺害、多数を負傷させ、また行方不明にする事件がありました。ディペーイン事件です。

事件の後、今度は軍政が、多くのNLD党員を逮捕・拘束しました。アウンサンスーチー書記長・ティンウー副議長らNLD執行部は、今も自宅軟禁の状態です。
ディペーイン事件後、ビルマでは、キンニュン将軍が「首相」になり、「ロードマップ」を発表して国民会議を開催すると発表しました。しかし、これらの「イベント」は、報道メディアの紙面・時間と関心を、ディペーイン事件からそらすためのものでしかなかったようです。実際、「首相」は選挙によって選ばれたのではなく、軍政トップの指名によって任命されたものですし、国民会議は、未だ開催日程さえ発表されていません。
世界各地のビルマ民主化活動家たちは、ディペーイン事件直後から、国連に対して、「公平な捜査」を申し出ていますが、10ヶ月経った今でも、進展はありません。先週、国連では、ビルマ代表ミャッタン氏(軍政から選出された人物)が、「アウンサンスーチーさんの心が純粋で、政治において現政権と歩みをともにしていたなら、ディペーイン事件は起こらなかった。事件が起きた理由は、アウンサンスーチーさんにある。」と発言しました。国連は、今後、どのような道を選んでいくのでしょうか?

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2004年 軍事政権トップの意思表明(3月28日)

第2次世界大戦末期の1945年3月27日、ビルマが対日反乱を始めました。以来この日は、ビルマにとって抗日の記念日となりました。1954年、日本=ビルマ平和条約・賠償および経済協力協定が結ばれた後、この日は「ビルマ国軍の日」と呼ばれるようになりました。

59回目にあたる2004年3月27日、7000の軍人によるパレードと、軍事政権のトップ、タンシュエの演説が行われました。演説の主な内容は、「国内外の反軍事政権活動家を殲滅すること」「ビルマ国軍をさらに拡充し、最新鋭兵器を導入すること」でした。
今、国民の最大の関心事は「国民会議がいつ開かれるのか、民主的な会議になるのか」ということです。しかし、軍政トップの演説は、民主化活動家を壊滅し、軍を大きくして国民への圧力をさらに高めるという内容だったのです。国民が真の民主化を求めているにもかかわらず、軍事政権は民意に逆行し、民主化への道はさらに険しくなっています。

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2004年 コンピューターには、角が生えていますか?(3月26日)

ラングーンとマンダレーのコンピュータ大学の学生、約300人が、出席率の不足を理由に退学処分を受けました。退学になったのは、最終学年の学生たちで、今月29日の卒業試験を前にしての処分です。

1988年の学生民主化運動以降、軍事政権は、集会など学生たちの活動を恐れて、大学を学部ごとに分割し、所在地も学部ごとに遠く離れた場所へと移しました。その結果、コンピュータを学ぶ学生たちは、ラングーン・マンダレーの各都市からバスで1時間半の場所まで通うことになりました。また、大学で教える内容がたいへん乏しいため、多くの学生は、大学と平行して塾に通います。貧しい家の学生は、アルバイトをしながら通学しなければなりません。こうした理由から、学生たちの出席率は低下し、要求されている75%を満たすことができなくなりました。最終試験を前に、学生たちがデモをしましたが、デモに加わった学生は、退学させられました。
「大学」を名乗るものの、3年制のこれらの学校には、2部屋の「コンピュータルーム」があるのみです。1年次にはコンピュータによる実習の授業がありません。2002年のデータによると、軍事政権はGDPの約50%を軍事費に使い、教育と医療にあてた額は、わずか0.27%です。「コンピュータには角がありますか?」は、学生たちの耳慣れたジョークなのです。

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2004年 アウンサンスーチーさん解放?軍事政権、その真意は?(3月25日)

2004年3月25日、アウンサンスーチーさんが3度目に拘束されてから300日目になります。

タイの外相は23日、「アウンサンスーチーさんが来月にも解放され、6月までに国民会議が召集される可能性がある」と発表しました。ビルマ軍事政権が、昨年5月30日のディペーイン事件から1年を迎える前に対処することで、国際的批判を免れようとして、タイ政府に協力をもとめたもの、との見方が強いようです。
軍事政権は、アウンサンスーチーさんを解放した後、彼女に政治・言論活動等の自由を保障するのか。軍事政権は、国際社会の批判をおそれて、この場をしのぐ行動に出ただけなのか、ほんとうに民主化を進めようとしているのか。また、各国政府は、軍事政権の動きをきちんと判断して対応するのか(日本政府の対ビルマODAはどうなるのか)。さらに、国民会議は民主的な方法で開催されるのか、注目されます。
1990年の国民総選挙で選出された国会議員の80%以上はNLD(国民民主連盟)党員ですが、ビルマ国内に住む議員のひとりによると、「軍事政権から、NLDに対する国民会議の正式な召集状は届いていないし、日程も知らされていない」という。民主化活動家の多くは、アウンサンスーチーさんを欠いた会議は国民会議として認められないとし、今のままでは国民会議は軍事政権の思わくどおりに進められ、民主化への道は開かれないと考えている。

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2004年 ミンコーナインさん、獄中生活15年目に(3月23日)

2004年3月23日、全ビルマ学生連盟の議長ミンコーナインさんが逮捕されて15年になります。

1988年の民主化闘争を指導した学生リーダーのミンコーナインさんは、10年の刑期を終えたにもかかわらず、釈放されずに軍事政権によって今も投獄され続けています。

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2003年 SCDBコラム/ニュース2 (12月23日)

ビルマ軍事政権の支配は15年間になりました。

ビルマのさまざまな問題の原因は、政治に軍が入っていることにあります。政治は政治家の仕事です。ビルマの政治のためには、1990年の総選挙で国民に選ばれた議員たちがいます。しかし、この国会議員たちは今、逮捕されて政治囚となったり、海外に亡命したりしています。国内にとどまっている国会議員もいますが、彼らに政治活動は許されていません。
ビルマがよい国になるためには、民主化が最も必要です。民主化のためには、今の軍事政権を打倒しなければいけません。
軍事政権を消滅させるためには、諸外国が、

  1. ビルマ軍事政権を援助しない
  2. ビルマ軍事政権と経済活動をしない
  3. ビルマに観光旅行をしない
この3つが大事です。
ビルマ国内では、外国と経済活動ができる人間は、軍事政権の家族やその関係者たちに限られています。一般の国民たちは、外国との経済活動ができないばかりか、外貨を持つことすらできません。ですから、ビルマと経済活動をしたり、ビルマを観光旅行したりすれば、ビルマの軍事政権を援助することになってしまうのです。
現在、日本にはビルマ軍事政権と経済活動をしている会社がたくさんあります。その中から、下記の4つは、SCDBの本拠地、名古屋にある会社です。このような4つの会社を、ビルマ軍事政権と経済活動をしている、つまり、ビルマを民主化から遠ざけてしまっている会社なのではないかと、考えてください。

会社名 : 株式会社トキワ Tokiwa Corporation

ビルマ国内事業 : 

1998年2月、合弁会社ミャンマー・トキワ・コーポレーションを設立
「Aphrodite(アフロディーテ)」(化粧ブランド)
「とTOKIWA」(鉛筆ブランド)
両ブランドとも、マンダレーとヤンゴンの工場でアジア向けに生産

会社名 : 東海協和株式会社 Tokai Kyowa company

ビルマ国内事業 : 

1997年、TKK AGENCY (YANGON) CO.,LTD.を設立
業種は海上貨物・航空貨物・コンテナなど
日本国内に営業所は多いが、海外営業所はビルマとアメリカのみ

会社名 : 岡谷鋼機株式会社 OKAYA & CO.,LTD.

ビルマ国内事業 : 

OKAYA & CO., LTD., YANGON REPRESENTATIVE OFFICE.
(鉄鋼・化学製品・建築資材・電機部品・食料品などを扱う)

会社名 : 豊田通商株式会社 Toyota Tsusho Corporation

ビルマ国内事業 : 

Myanmar Toyota Tsusho Co., Ltd.(輸出入および卸売)
TTAS Co., Ltd.(車両および部品の販売)

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2003年 SCDBコラム/ニュース1 (11月19日)

“人権は誰にでも、うまれた時からあって当然のものである”

人権の問題は、多岐にわたっています。なかでも言論の自由は、とても大切なもののひとつです。
例えば、日本では国民もマスコミも、総理大臣や政府関係の人に反対するときは、それについて、話したり書いたりすることが自由にできます。この自由は、日本ではふつうのことで、当たり前すぎて“自由”とさえ意識されないくらいです。でも、ビルマにはこの自由はありません。例えばビルマでは、政府関係の人たちや軍事政権の偉い人たちのことを「(彼らの政治の方法は)間違っている」と言っただけで、逮捕されます。
ビルマのラングーンで、NLD(国民民主連盟)のメンバー、サンサンモゥさんが、区の公務員高官を悪く言ったために逮捕され、2年間の懲役に服しています。逮捕されたとき、彼女は妊娠していました。子どもは、今年の10月5日にうまれました。息子は、アウンサンモゥリンくんと名付けられました。
彼女は、ビルマで最も有名なインセイン刑務所に入れられています。インセイン刑務所の状況については、ICRCがいつも監視しています。それでサンサンモゥさんは出産のとき、刑務所を出て、近くのインセイン病院(一般市民が利用する病院)に行くことができました。しかし、10月7日には、母子ともに刑務所に戻されました。今、世界で一番としの若い政治囚は、アウンサンモゥリンくんでしょう。彼は、生後2日で政治囚になったのです。人権は、うまれた時からあって当然のものではなかったでしょうか?
世界には、人権が認められていない国が、まだたくさんあります。ビルマもその中のひとつです。1日も早くビルマが民主化しないことには、ビルマの人たちは、うまれてから死ぬまでずっと人権とは何かを知ることもなく過ごすことになってしまいます。
このような人権問題について、あなたはどう考えますか?

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